灯りの手前にあるもの

灯りの手前にあるもの

軽い思いつきから始まったこと

ポータブル照明の開発を考えていた時、途中でオイルランプの試作を作った。最初は本当に軽い思いつきだった。けれど、使っているうちに、ただの明かりとしては感じられなくなってきた。

見ているのは炎そのものというより、炎によって周囲に起きている現象の方なのかもしれない。ガラスの透過の綺麗さや、反射する金属の佇まい。それらが揺らぎ続けていることの有機性。忙しい日常の中で、目の前で本来当たり前に起きていることが、急に魅力的なものに見えてくる。

その景色は、情報として程よく抽象的で、その時の思考に強く介入しすぎない。だからこそ、絶妙なノイズとして視覚情報を作ってくれる。何かを考えさせるわけでもないのに、見ているうちに少しずつ自分のモードが変わっていく。思考が整理されるというより、余計な力が抜けていく感じに近いのかもしれない。同じ炎だから当たり前ではあるけれど、焚き火をしている時間に近いものがある。

正しさとつまらなさ

ポータブル照明そのものには、もともと違和感はなかった。むしろ、配線がいらないことの自由さは素晴らしいと思っていたし、明るさや実用性を強く主張しないところも個人的には魅力に感じていた。ただ、開発と向き合ってみると、光源の設計やバッテリーの選定、蓄電や放電を制御する基板のことなど、全体感の前に決めなくてはならないものがあまりにも多い。もちろん、それはプロダクトとして当たり前のことだし、否定したいわけでもない。

ただ、日進月歩の領域だからこそ、いま向き合っているものが2、3年後にはもう別の状況になっているかもしれない、という感覚は拭えなかった。どれだけ時間も労力もお金も注いでも、それがどんどん変化していくものだとしたら、小さなメーカーとして、そこに何を賭けているのだろうと思ってしまう。わかりやすく言えば、費用対効果のようなことかもしれない。

そんな時に、オイルランプのような極めて単純な構造のものに触れると、妙に惹かれるものがあった。

使っているうちに、自分は盲目的に時代の流れを追いかけようとしていたのかもしれないと、少しはっとした。

色温度や演色性を高めることに、お金もエネルギーも注ぐ価値はある。でも、どれだけ頑張っても実際の炎の魅力には届かないような気がした。それは灯りの有機性だけの話ではない。火を灯すという行為そのものに、すでに価値があるからだと思う。

指先で点灯して、バッテリーがなくなったら充電する。色温度も明るさも変えられる。そういう便利さの価値は確かに大きい。でもその代わりに、灯りを灯すという実感や、そこに伴っていた体験を、ずいぶん失ってしまったのではないかとも思う。火は熱いし、不規則に揺らぐし、オイルも要るし、火をつけるための道具も要る。そういう余計なものを、現代の道具はうまく排除してきた。けれど、その余計なものの中にこそ、実は大事な感覚が含まれていたのではないか。そしてその付随する要素は、尊いものに感じてならない。

火を「危ないもの」としてだけ扱う態度には、少し雑な気がしてしまう。もちろん危ないのは事実だし、安全に越したことはない。でも、危ないから排除する、手間というものを無くす、という判断ばかりを積み重ねていくと、人が本来持っていたはずの感覚まで一緒に失ってしまう。そこに合理的なつまらなさを感じるのかもしれない。

それは火に限った話ではなく、プロダクト全体がそうした価値観に迎合しすぎていることへの違和感でもある。ゾッとしたのは、自分自身もまた、当然のようにその価値観に向き合わなければならない感覚に陥っていたことだ。時代の潮流というのは、度々こちらの感覚を悪い意味で鈍らせ、ことごとく視点を変えてしまう。安全で、便利で、失敗がなく、扱いやすいものを目指すことは正しい。けれど、その正しさを疑わずに積み重ねていくと、プロダクトが本来持っていた存在価値や、独自性、多様性は、少しずつ損なわれていく気がする。

いつの時代も、そういう合理性の外側にあるものには独特の深さがあると思う。面倒さや危うさを含んだものの中にしか育たない感覚もある。だからこそ、全部をきれいに排除するべきではない気がしている。

熱いものをどう扱うか。少し危ういものとどう付き合うか。かつては暮らしの中に当たり前にあった感覚が、今となっては遠い特別な体験になってしまっている。

そんなことを考えていると、自分がこれまで何を作ろうとしてきたのかも、少し違う角度から見えてくる。私はずっと、照明ではない何かを追いかけてきたつもりでいる。照らすための道具としてではなく、ただ在ることで感情や思考に作用するもの。そのことを言葉にしきれずにいたけれど、オイルランプにたどり着いた時、見事にはまった感覚があった。

炎をおさめる器

火を見つめる時間を日常に取り入れる。そういう意味で、オイルランプはただの明かりではないのだと思う。見ているのは炎そのものより、炎が起こしている現象の方かもしれない。ただ、その現象を生み出している根源が本物の炎であることに、強い魅力を感じている。自然現象と人間の作ったものが接続していること。支配するでもなく、共存していること。そのことに、妙な喜びがある。

だから、これは便利な灯りの代用品ではない。

炎そのものより、そのまわりで起きていることに惹かれている。
ガラスの透過や金属の反射、揺らぎによって立ち上がる見え方まで含めて受け止めたい。
だから私の感覚としては、TOUGは「炎をおさめる器」という呼び方がいちばん近い。

寺島洋平

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