他者の解答を見続けることは栄養になるか
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インプット過多の時代に感じる違和感
私はここ数年、インプットをやり続けることに違和感を覚えている。
インプットは次々と変化し続ける。確かに影響や気付きはあるのだけれど、一つのことに本質まで辿り着くほど向き合う前に、常に新しい情報が入ってきてしまう。一方、アウトプットは非常にエネルギーを使う行為だが、続けることで自分の思考を整理する力が少しずつ身についていく気がする。
そして何より感じるのは、インプットをどれだけ続けても、アウトプットする力は育まれないのではないか、ということだ。
インプットの種類
ただ、全てのインプットが無意味だと言いたいわけではない。考えてみると、インプットには質的な違いがあるような気がしている。
デザイナーが他者のデザインを見続けること、シェフが他者の創作料理を食べ歩くこと。これらは誰かが既に出した「解答」を見ている行為なのではないか。
確かにこれらは「分析力」を育むことには繋がる。良いデザインを見分ける目、美味しい料理を評価する舌。でも、それは既存のものを理解し解析する能力であって、自分で何かを生み出す力とは何か違うものなのではないだろうか。
一方で、色彩理論やタイポグラフィの原理、食材の特性や調理法の科学といった「素材」のようなインプットは、やはり重要だと思う。これらは誰かの解答ではなく、自分で答えを作り出すための基盤となる材料だからだ。
分析できることと、作れることの違い
他者の解答を見ることは「分析力」を育むのだと思う。しかし、実際にアウトプットする力——私はこれを「具現化力」と呼びたいのだけれど——はまた別のスキルなのではないだろうか。
優秀な映画評論家が、人の心を突き動かす映画を生み出せるわけではないことを考えてみる。(技術的な課題はおいておいて)美味しい料理は評価できても、自分では作れない人は多い。「分かる」ことと「できる」ことの間には、何か深い溝があるように感じる。
分析力というのは既存のものを分解し、「なぜこれが良いのか」を言語化する力だ。一方で具現化力は、散らばった要素を組み合わせて新しいものを実際に作り出す力。この二つは、同じ方向を向いているようで、実は全く違う筋肉を使っているのかもしれない。
作り手の「癖」
評価能力が創造の手助けになることは間違いない。でも、絵画を例にとれば、独自の色彩感覚を表現できる人が必ずしも理論的知識を持っているとは限らない。
むしろ手仕事においては、理屈や合理性からかけ離れた「本人の癖」のようなものが、重要な要素になっている場合があるように思う。
陶芸家の手の動き方、料理人の火加減の感覚、画家の筆の持ち方。これらは言語化できない何かであり、おそらく無意識から生まれる身体の記憶なのだろう。理論的な学習だけでは到達できない領域が、そこにはあるのではないか。
思考の「癖」
自分のことを振り返ってみると、どこかに向かう時に行きと帰りで違う道を通る癖がある。意識的にそうしているわけではなく、感覚的にそうしてしまう。
なぜそうするのか、自分でもよく分からない。でも分析するならば、何かの出会いや刺激を本能的に求めているのかもしれない。効率的な最短ルートよりも、新しい発見や変化を無意識に選択しているような気がする。
そして気づいたのだが、この癖は思考においても現れる。
何かについて深く考え、それを理解した(私なりに)時、その解答に対して視点を変えた解釈の形を追いかけることが多い。「もしこうだったら」と想像する癖が幼少期から強い。自分では単に「ひねくれた性格」だと思っていたのだけれど。
でも、これも同じことなのかもしれない。一つの解答に満足せず、別の角度から光を当ててみたくなる。既定のパターンから脱出したい何らかの本能が、私の中にあるのかもしれない。
振り返ってみれば、これらは全て同じ衝動から来ているように思える。
物理的に違う道を通ること。思考において視点を変えて解釈すること。学習において他者の解答ではなく、素材から自分で創造したいと思うこと。
これらは全て「既定のパターンから脱出したい」という、同じ欲求の現れなのではないだろうか。
探し続けることの意味
この「もしこうだったら」という想像を繰り返すことに、どれほどの意味があるのかは分からない。
発散的に考えること、前提を疑うこと、仮定のシナリオを探索すること。自分の場合、これらが創造性に繋がり道標になっている。
真の具現化力というものがあるとすれば、それは他者の解答を消費することからではなく、素材と向き合い、自分の癖を通して物事を解釈し、アウトプットし続けることから生まれるのではないか。そんな風に考えている。
寺島洋平